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&Talk 聖学院の歴史「ルーツは140年前にあり!」
4人の教員によるトークセッション 菊地順先生 × 村松晋先生 × 杉淵洋一先生 × 赤田直樹先生
『NEWS LETTER & Seig No.286(2023年9月号)』掲載
牧師であり聖学院の歴史に詳しい菊地順先生、日本のプロテスタント史に造詣の深い村松晋先生、秋田県出身で文学とディサイプルス派の伝道に詳しい杉淵洋一先生、ディサプルス派の伝道ともゆかりの深い秋田の幼稚園で園長を勤め、現在聖学院みどり幼稚園園長である赤田直樹先生。
それぞれの専門分野から光を当てることで先人たちの軌跡を立体的に考察します。
特集 聖学院の歴史-ルーツは140年前にあり!-
聖学院はディサイプルス派の宣教師が日本での伝道と、社会貢献のために作った学校です。
H・H・ガイが1903年に聖学院神学校を作り、その3年後に聖学院中学校を設立。バーサ・F・クローソンが聖学院中学校に先立ち女子聖学院(神学校・1905年)を開校しています。
さらにその先人として日本での伝道を始めたのは4人の宣教師であるガルスト夫妻とスミス夫妻です。
彼らは今から140年前の1883年に来日し、翌年の1884年に秋田から伝道を始めます。
鎖国が終わり近代化を急ぐ日本に来た宣教師たちの旅が、どう教育につながるのか。
4人の先生にお集まりいただき、聖学院の創成期をうかがいました。
身の回りの人々に手を差し伸べることから始まった伝道
ーーディサイプルス派の伝道は秋田から始まります
なぜ秋田だったのでしょうか?
赤田:当時日本にいる宣教師の間で様々なネットワークがありました。
ガルストとスミスが日本に来て横浜に滞在している時、他の教派のポート宣教師という方が2人に「まだ宣教師が1人も入っていない、秋田はどうか」とアドバイスをしてくれたそうです。
2人はそれを神様のご計画だと受け取って秋田に行ったそうです。
杉淵:ポート宣教師はその時点で10年以上盛岡を中心に宣教していてかなり日本語が堪能だったようです。
ガルストとスミスは秋田で武家屋敷を借りて、そこを拠点にしています。
その武家屋敷を借りる時もポート宣教師がとても力になってくれたそうです。
村松:明治維新以降、日本のクリスチャンは佐幕派(※1)出身の士族を中心に広まります。
つまり明治新政府のもとでは社会的に上昇しづらい人たちがクリスチャンになっていきます。
たとえば東北の場合、諸藩は戊辰戦争において奥羽越列藩同盟という新政府と対立する姿勢を取っていました。
しかし戊辰戦争に敗北の結果、この同盟にかかわった諸藩は明治新政府の元では立場を失います。
それがキリスト教への内面的な渇きにつながっていきました。
旧仙台藩士の中には函館を訪れ、正教会のニコライに出会った人々がいます。
彼らは日本を新しくしていくのはキリスト教だと確信し、ハリストス正教を受け入れ、熱心に教えを伝え、北東北を中心に教会が成立しました。
他にも、明治学院創立に関わった井深梶之助は会津藩出身ですね。
東北以外でも、たとえば内村鑑三は佐幕派藩士の子弟ですし、植村正久は旗本(※1)の家の出ですから、いずれも新しい時代の「陰」に置かれた人たちです。
一方秋田は東北でごく少数の官軍側(※1)です。
そのため周辺諸藩に比べてキリスト教への渇望が希薄だったのではないかと思います。
これは仮説ですが、ガルストとスミスが来日時に秋田が取り残された状況にあった理由の一つにそういった事情もあったのではないでしょうか。
杉淵:地形的な影響も大きかったと思います。
ガルストとスミスが秋田に行った時は日本に鉄道がほとんどありませんでした。
けもの道のような陸路を行くか、横浜から船で津軽海峡を渡るしかありません。
先日のニュースで取り上げられていたように、秋田は夏に雨が降ると豪雨になって川が氾濫しますし、冬になれば、奥羽山脈が雪で埋もれ孤立します。
秋田へ行くのには多くの困難がつきまとったのだと思います。
赤田:秋田に行くと決めた時に、ガルストとスミスは周りの宣教師たちから「とても危険だからやめた方が良い」と言われたそうです。
※1 佐幕派・旗本・官軍
佐幕派とは朝廷権力の復活を目指す勤王派に対して江戸幕府政策を擁護する勢力。旗本とは江戸時代1万石未満の幕臣(江戸幕府の家臣)の総称。官軍とは朝廷方の軍隊。勤王派。
ーーそれでも秋田に行ったガルストとスミスはどのような人物だったのでしょうか?
杉淵:当初ガルストとスミスはアフリカに行きたかったそうで、未踏の地を選ぶようなフロンティアスピリッツの持ち主だったようです。
私が調べた印象では、ガルストはとても情熱的で気持ちが強い人物です。
そのため秋田でやってやるという気概があったのではないかと思います。
菊地:来日前の話ですが、ガルストは、妹が同じディサイプルス派の洗礼を受けたいと言った時、次の日曜まで待たずに「すぐ教会に行こう」と言ったそうです。
決断力と実行力に富んだ人で、それが行動の端々に出ていると思います。
杉淵:ガルストは秋田県の近代化に対してもいろいろ助言をしています。
地元の有力者に発電と送電、鉄道と工場を作らなければ近代化できないということを言っています。
だからガルストはキリスト教の伝道というより西洋型の近代化を秋田に起こそうとしていたのではないかとも感じます。
まずは身近な人たちの暮らしを考え、その流れの中でクリスチャンになってくれる人がいれば良いという人物だったという印象がとても強くあります。
ガルストは45歳で亡くなります。
その際夫人に遺言を聞かれ、「My life is my message.」と答えています。
「私の人生が私のメッセージだ」という最後の言葉にも実行の人だったということが見て取れます。
赤田:ガルストはどんどん外に出ていくタイプだったようです。
秋田に来てから数週間のうちに40キロ以上離れた本荘に行ったり、また100キロ近く離れた院内というところにも行っています。
菊地:一方スミスは秋田を中心に伝道しています。
杉淵:スミスは非常に控えめな人で、あまり表立ったことはしない人でした。
動のガルスト、静のスミスという感じで、もしかしたらバランスを取っていたのではないかという気がします。
ーー秋田での伝道と、地元の人たちの反応はどうだったのでしょうか?
赤田:秋田はキリシタン時代に多少キリスト教が入っています。
ただやはりその人たちへの弾圧があったので、恐らくキリスト教への警戒心が強かったと思います。
杉淵:そもそも西洋人が来ること自体がとても珍しいことだったので、地元の人たちがガルストたちが住む武家屋敷の障子に穴を開けて覗きに来ていたそうです。
ただそういうことに負けない人たちなので、秋田に来てすぐに聖書を販売したり、バザーを開いたり、講演会などを催したりしました。
スミス夫人は最終的には日本語で演説ができるようになったという記録が残っています。
菊地:スミス夫人は地元の女性たちを集めて生活に役立つことを教えていました。
いわゆる伝道だけをしていたのではなく、生活全体で秋田の人たちの中に入っていこうと努力していたのだと思います。
そのスミス夫人が1年も経たないうちに亡くなります。
そのことも周囲の人々に大きく影響を与えたようです。
遠くアメリカから秋田に来て人生を終える、そのことを通して神の福音を伝えようとした姿勢が人々の心を開いていったと記録にあります。
やはり行動といいますか、生き様が徐々に受け入れられていったのではないでしょうか。
赤田:とても貧しい人たちが信徒になったという記録があります。
(秋田以外は)キリスト教は士族に受け入れられやすいというお話がありましたが、ガルストたちの姿勢として、上位階級から伝道しようとしたのではなく、日々大変な思いをしている人たちにこそ伝えようとした様子がうかがえます。
村松:親のない子どもなど社会的弱者に最初に働きかけたのは日本の場合、どちらかというとカトリックですよね。
プロテスタントは先ほども述べたように士族や豪農に入っていった傾向があります。
そのような中においてガルストたちは物心両面において、貧しい人たちの生活の中に入っていきました。
そのようなあり方はとても貴重だと思います。その流れに聖学院があることは大変誇らしく感じます。
聖学院の名前の由来
聖学院中学校の初代校長石川角次郎は、聖学院は「聖なる学院」ではなく「聖学」の院であると語っています。
では「聖学」とはなんでしょうか?
1903年にガイが神学校を開いた時の校名は、最大の寄付者の名を冠してドレーク・バイブル・カレッジと名付けましたが、その後聖学院という名前になります。
聖学院という名前は、当時ガイと石川角次郎と神学校教授の宮崎八百吉の3人で決めたであろうと推測されています。
その背景には、当時ヨーロッパで「聖」についての価値をめぐる議論が盛んだったという状況があったようです。
例えば学問と道徳と芸術の頂点を意味する真善美、それらをくくるさらなる上位のものとして「聖」があるという議論などがありました。
ガイはアメリカに一時帰国し勉強しているのでヨーロッパのそういう動向を知っていたのではないかと思われます。
この「聖」を学ぶのが「聖学」で、聖なる人(キリストの弟子「ディサイプル」)を育てるという思いに基づいて名付けられたのではないかという説があります。
ちなみに旧約聖書の元々の言語のヘブライ語では「聖」は「カードーシュ」と言い、この元々の意味は「分ける」という意味です。
この世のものから分離されたものが聖なるものです。
従って聖学院の「聖」も日本で浸透している「清い」というニュアンスとは少し異なります。
伝道から教育へ
ーー宣教師たちが学校を作ることになった経緯を教えてください
菊地:まず基本的に、聖学院も含め宣教師たちが作った学校というのは、伝道者を養成するためのものでした。
日本人の伝道者を生み出し伝道を広げるための学校です。
現在のような一般教育を行う学校とは少しニュアンスが異なっていました。
日本に来た宣教師たちは最初熱心に伝道を行っていました。
しかし日本人の伝道者の必要性を感じ、学校が作られるようになります。
ガルストも当初はそういう教育は恐らく考えていなかったと思います。
聖学院神学校を作ったガイが来日したのはガルストの10年後でした。
赤田:日本に外国人が滞在するためには現在のビザのようなものが必要でした。
ガルストは、外国人の滞在目的を作るため、秋田英和学校というものを作っています。
菊地:それは宣教師が国内を移動できるように?
赤田:それと長期滞在のためです。ただ、スミスやガルストも教鞭をとっていますし、その後、ミスハリソンなど後続の宣教師も授業をしています。
伝道と教育を共に行っていて、ガイが聖学院神学校を作る流れにつながっているのかもしれません。
菊地:ガイは聖学院神学校に先駆け、1896年に一度私塾を作っています。
ガルストが病気になったことで頓挫した記録がありますから、やはり両者の間に協力関係はあったと思いますね。
村松:私の専門の方から言うと、日露戦争前後の時期は若者が将来に希望を持てない、まさに「生きづらさ」が広まった時代なんですね。
大日本帝国の見かけの「発展」とは裏腹に、世の中には閉塞感が広がり、いわゆる社会問題も表れ始め、物心両面で苦しむ人が多く出ました。
1904年は自殺者が1万人を超えたという説があるほどです。
若い人たちが精神的な支柱を求め、新渡戸稲造や内村鑑三のもとに集まってきたのもこの時期です。
それだけに1903年の聖学院神学校設立はミッション側の判断に加え、明治末期の閉塞した日本を、キリスト教によって新たに切り拓こうとする主体的な意志も関わっていたように思います。
杉淵:秋田としては秋田英和学校はとても大きな意味を持ちます。
当初は宣教師の長期滞在のために作られた学校ですが、教育分野にも力を入れるようになります。
ガルストから洗礼を受けた評論家の青柳有美(※2)が、この学校から巣立った後、教師として秋田の多くの若者たちから支持されていたことなどは、秋田英和学校の教育がとても魅力的であったことを物語っています。
この学校で洗礼を受けた人が東京のミッションスクールで働くなど、秋田から都会に出て行く一つの流れを作ったように感じます。
また、秋田英和学校とは直接関係ありませんが、反戦平和を謳った日本最初のプロレタリア文学雑誌『種蒔く人』の創刊同人の一人も、秋田で伝道する人々の姿に心を打たれて、ディサイプルス派に入信しています。
※2 青柳有美
明治から昭和前期のジャーナリスト、随筆家。明治26年から「女学雑誌」にかかわり、のち主幹。大正にはいって「女の世界」の主筆となった。本名は猛。著作に「恋愛文学」「有美臭」「有美道」などがある。
ーー聖学院神学校と女子聖学院は、ほぼ同時期に作られています
何か意図があったのでしょうか?
菊地:基本的には別々に始まっています。
女子聖学院は、日本の伝道における学校の必要性を感じたアメリカの外国クリスチャン伝道協会が設立を提言しています。
特に牧師となった人を支える女性の必要性を考え、女子教育が重視されていました。
そういったビジョンの中、すでに日本の大阪にいたクローソンに白羽の矢が立ち、1905年に女子聖学院が作られます。
それに対し、聖学院神学校はガイの強い思いから始まっています。
ガイは私塾が頓挫した後、休暇でアメリカに戻ります。
その際に様々な人に働きかけ、資金を集め、聖学院神学校設立が実現します。
赤田:聖学院神学校を作るにあたり、すでに聖学院中学校を作る話がガイと聖学院中学校初代校長を務めた石川角次郎の中ではあったという記録があります。
菊地:聖学院中学校は石川角次郎に校長になってもらう約束をとりつけて始まったということです。
そのあたりにガイと石川角次郎の親密な関係性がうかがえます。
ーーガイ博士、石川角次郎先生、クローソン先生はどのような人物だったのでしょうか?
菊地:ガイは非常に能力の高い人であったと思います。
ギリシャ語やラテン語に精通し、日本語も堪能でした。
ガイが隣の部屋で話していると、日本人が話していると思われるほどだったそうです。
石川角次郎が亡くなった時、ガイはすでにアメリカに帰国していたのですが、教育使節団の団長としてたまたま日本に来ていました。
石川角次郎の葬儀に参列したガイは、東洋の思想や仏教用語も引用しながら弔辞を述べたそうです。
石川角次郎は結構ユーモアがある人だったようです。
例えばデモクラシーという言葉を学生に教える際「でも暮らしいい」と駄洒落を交えて教えた逸話があります。
後に聖学院理事長になる甥の石川清氏も、角次郎は面白い伯父さんだったと記しています。
人間味に溢れる人だったようです。
だから生徒からも慕われていたと思います。
クローソンはスクールマザーと呼ばれていました。
学校の母と呼ばれるぐらい生徒から慕われたということです。
遊びに出かけた生徒が夜遅くまで帰らなかった時も、生徒を怒らず一緒にお茶を飲んで話をしたというエピソードがあります。
石川角次郎はアメリカ留学中にディサイプルス派に入ります。
帰国後ガイと出会い、教育に対する考え方で意気投合します。
学校で直接生徒に伝道するのではなく、授業を通して伝道する。
一般教育を通してキリスト教を伝える。
この姿勢が二人の共通点でした。
そういう形での伝道の精神は今でもずっと貫かれていると思います。
それは聖学院の良い伝統だと思います。
村松:当時はまだ中里の辺りは滝野川村ですから今で言う東京という感じではなかったのでしょうね。
菊地:何もない本当に田舎でした。
村松:明治末期から大正にかけての中里は北に行くと軍関係の施設がいくつもあって、一方で東に進むと膨張する東京から遠ざけられた工場や施設が集積した地帯があり、そこで働く人々は、いわれなき差別や偏見にさらされることもありました。
どちらも近代日本の「陰画」と呼び得る場所ですが、中里はそういう地域と近かっただけに、聖学院神学校から生まれた滝野川教会にしても聖学院中学校にしても、いわゆる「ハイクラス」の人たちではなく、隣接する地域の労働者や社会的に困窮している人たちへの伝道や教育を自覚的に行なっていた可能性はありませんか?
菊地:それはあると思います。
杉淵:私もその点については、やはりガルストの意思を受け継いでいると思います。
菊地:ガルストは貧しい人たちにとても心を寄せた人です。
妻ローラの書いたガルストの伝記の原文には、日本人の10年間の生活費の比較資料が出てきます。
ガルストはその伝道を通して日本人の困窮を知っただけではなく、そうした客観的な資料にも当たって、それを的確に把握しながら、身の回りの困窮者に対して非常に具体的に関わっていたのです。
当時、アメリカも南北戦争や産業革命による工業化に端を発する労働者の問題を抱えていました。
同じような構図をすでに経験済みだったのです。
ガルストはそうしたアメリカを参考にしつつ日本人の救済ということを考えたのだと思います。
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なくなっていたかもしれない聖学院の危機
ーー聖学院にとってターニングポイントとなる出来事はありますか?
菊地:1932年、平井庸吉が聖学院中学校と女子聖学院の校長を兼任したことだと思います。
それに先立つ1930年12月に聖学院中学校校長の石川角次郎が亡くなります。
それは聖学院にとって大きな痛手で、後任が1年も決まりませんでした。
平井庸吉はガイのもとで学んだ人物で、すでにクローソンの跡を継いで女子聖学院の院長(=校長)に就任していました。
しかし、やはり石川角次郎の後任は平井庸吉しかいないということで兼任が決まりました。
平井庸吉はそれから8年間ずっと両校の校長を務めます。
その間、教職員の交流が積極的に行われ、今の聖学院の基盤になりました。さらに1929年の世界恐慌の影響で、アメリカの教会からの援助が断たれます。
それまで女子聖学院はアメリカからの援助で成り立っていましたし、聖学院中学校も多くの支援を受けていました。
この危機に際し、教職員の俸給を減俸する一方、保護者会の理解と協力を得て授業料の増額を図るなどし、乗り切ったのが平井庸吉でした。
平井庸吉によって、もともと別の学校だった男女両校が一体化し、経済的に独立したというのが一番のターニングポイントだったと思います。
受け継がれてきたものと受け継いでいくもの
杉淵:ガルストは農学の学校を出ていて、秋田ではその知識や経験を存分に生かせたと思います。
自分が身につけたことをどうしたら周囲の人たちに還元していけるのか、秋田での伝道はそういうことを考え、今日の聖学院につながる教育のノウハウを学ぶ場にもなったのではないでしょうか。
それが今日の聖学院のスタンスにも確実に受け継がれていると思います。
村松:杉淵先生がおっしゃったように、聖学院にはその地域に根ざし、地域の人々のために教育を行うという意思があるように感じます。
偶然でもあるのでしょうが、東京の中心部ではなく周縁部に位置し、額に汗して働く人々に囲まれた中里の地に聖学院が立ち上がったことは、ガルスト以来の聖学院の志の表れのように思います。
それを大事にしていってほしいです。
菊地:本当に私もそう思います。
ちゃんと地に足のついた伝道をしてきたということだと思います。
その自分たちのアイデンティティをしっかり持って、一歩一歩たゆまず前進していくことが大事だと思います。
赤田:「My life is my message.」の言葉のように命をかけて神様の愛を伝えてくれたことが、今も各学校各園に浸透していると思います。
今度はそれを自分たちの次の世代に伝えていきたいですね。
菊地:ガルストが最期に言った「My life is my message.」という言葉、実はマハトマ・ガンジーも同じことを言っています。
調べた限り接点がないので、たまたま同じ言葉を言ったのだと思いますが、ガンジーは同時にこうも言っています。
「Your life, too, must be your message.」あなたの人生もあなたのメッセージにならなければならない。
この記事を読んだ方には、ぜひそういう志を持っていただけたらうれしいです。
(取材日/2023年8月)
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菊地 順(きくち じゅん)
聖学院大学政治経済学部特任教授、聖学院大学総合研究所所長、前キリスト教センター所長。近著に『ティリッヒと逆説的合一の系譜』(聖学院大学出版会、2018年)、『M・L・キングと共働人格主義』(同、2021年)等。
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村松 晋(むらまつ すすむ)
聖学院大学人文学部日本文化学科教授。近現代日本思想史専攻、博士(文学)。近著に『近代日本のキリスト者――その歴史的位相』(聖学院大学出版会、2020年)、「アジア・太平洋戦争期『日本基督教』の射程――その神学的可能性の検討」(『日本の神学』62号、日本基督教学会、2023年9月)等。
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杉淵 洋一(すぎぶち よういち)
聖学院大学人文学部日本文化学科准教授。愛知淑徳大学初年次教育部門講師等を経て現職。秋田県男鹿市出身、秋田県立秋田高等学校を卒業。専門は日本近現代文学、比較文学、文学理論。著作に『有島武郎をめぐる物語――ヨーロッパに架けた虹』(青弓社2020)等がある。
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赤田 直樹(あかだ なおき)
聖学院教会牧師、聖学院みどり幼稚園園長・チャプレン、学校法人聖学院評議員。「キリストの教会」(有楽器派)の牧師家庭に生まれる。聖学院大学人文学部欧米文化学科卒業後、東京神学大学・同大学院で学ぶ。滝野川教会副牧師、秋田高陽教会牧師・秋田幼稚園園長として働いた後に現職。
チャールズ・E・ガルスト(1853~1898)・・・アイオワ州立大学(農学)、ウエストポイント陸軍士官学校を卒業後、8年軍部に服する。その間、海外宣教の準備をし、1883年に妻ローラとともに来日。当時30歳。1898年日本で逝去。
ジョージ・T・スミス(1843~1920)・・・アメリカで十年間牧師をした後、1883年に妻ジョセフィンと来日。当時40歳、6歳になる娘がいた。1892年に帰米。
ジョセフィン・W・スミス(1850~1885)・・・横浜から夫に2ヶ月遅れて娘と秋田に着任。編物教室を開くなどしながら伝道に従事。翌年3月、次女出産後逝去(次女も亡くなる)。
石川角次郎(1867~1930)・・・アメリカで留学中にディサイプルス派の洗礼を受け、帰国後にガイと出会い意気投合。学習院大学教授を辞して聖学院中学校初代校長となる。
H・H・ガイ(1870~1936)・・・1893年、夫人とともに来日。聖学院神学校、聖学院英語夜学校、聖学院中学校を設立。1907年夫人の病のため帰米。
バーサ・F・クローソン(1868~1957)・・・1898年来日。大阪を中心に伝道活動。その後1905年女子聖学院初代院長となる。1937年に帰米。
平井庸吉(1871~1947)・・・1895年ガイの聖書学校に入学。卒業後、大阪を中心に伝道活動。1924年女子聖学院の第2代院長となる。1932年から聖学院中学校第2代校長を兼務。
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