スペイン語を活かしてメキシコで勤務、現在は静岡で活躍|#048 古庄ダリオ聡志さん
聖学院大学 人間福祉学部 人間福祉学科 卒業
ペルーにルーツがあり家族とスペイン語で会話をしていたので、日本語とスペイン語のバイリンガルである古庄 ダリオ 聡志さん。
大学卒業後は、得意なスペイン語を活かしてメキシコで働いていましたが、数年前に帰国して今は静岡に住んでいます。
夏休みに埼玉に帰省するという情報を得てアプローチ。
大学で取材をさせていただきました。
陸上部とヴェリタス祭実行委員で活躍した学生時代
ーーダリオさんと会うの、すごい久しぶりですね
Facebookでのつながりはありますが、リアルにお会いするのは久しぶりですね。
大学に来たのも、すごい久しぶりです。
本当に卒業式以来という感じかも知れません。
チャペルにパイプオルガンが設置されるというお話をうかがっています。
ようやく念願が叶うんですね。
奏でる音楽を、ぜひ聴いてみたいです。
ーーダリオさんといえば、陸上部での活躍が思い出されるのですが、どんな大学時代でしたか?
大学生活の前半は、やはり陸上部一色でしたね。
もともと聖学院大学への進学を勧めてくれたのが、高校の陸上部で投擲(とうてき)競技(円盤投、砲丸投、やり投、ハンマー投)を専門にしている先生だったんです。
僕は円盤投と砲丸投の種目に出場していて、2年生のときの第91回関東インカレ(関東学生陸上競技対校選手権大会)では、円盤投7位、砲丸投が4位という成績でした。
翌年の第92回関東インカレでは、40m04を投げて円盤投が3位、砲丸投は昨年の記録を超える13m64を投げたのですが順位は5位でした。
それから、陸上部と並行して力を入れていたのがヴェリタス祭(大学祭)実行委員の活動です。
最初の年は有志課、翌年は企画課に所属して、企画・運営の担当をしていました。
企画課は主に中庭(調整池)メインステージのイベントの企画を担当したので、とても楽しくてやりがいのある活動でした。
エピソードを一つご紹介します。
イベントの最後に抽選会を実施したのですが、企画課チームで、小さなガラポン抽選器みたいなもので番号を引くのでは全然盛り上がらないよねという話になりました。
当時、僕の弟がプログラミングの勉強をしていたので、同じ確率で番号を引き当てるプログラムを組めないかと頼んでみたところ、一晩で完成させてくれました。
当日は、番号が出てくるプログラムを大きなスクリーンに映し出して、ワクワクしながら抽選会を実施して、すごく盛り上がったし楽しかったですね。
これやりたい、あれやりたいと夢ばかり膨らんで、でも予算やら何やらあって、現実的じゃないからあきらめるということが多かったんです。
それが、あきらめずに知恵を絞ってチャレンジしてみたら、意外とできちゃうもんだなと。
このときの経験が、「まずは挑戦しよう」と考える文化に、僕たちを変えてくれたと思います。
ーー福祉の学科で学ぼうと思ったのはなぜですか?
自分の親戚はみんなペルーやスペインに住んでいて、日本にはあまりいないのですが、唯一日本にいた親戚のおばさんが大病をして半身不随になってしまったんです。
おばさんの知り合いも日本に少なかったので、僕もおばさんの世話をするようになって、もちろんたいへんではあるのですが、案外、嫌ではなかったんですよ。
逆に、もう少し本格的に福祉やケアについて学びたいなと思って、大学は福祉の学科を選択しました。
大学では古谷野 亘先生のゼミに所属しました。
古谷野先生は高齢者福祉が専門でした。
高齢者に限らずですが、福祉の考え方や精神、そしてそれに基づいた人との接し方など、授業やゼミで学んだ多くのことが、現在の自分の仕事の役に立っていると実感しています。
エフェクター自作の趣味が高じて機械好きに
ーー 現在のお仕事の内容と、現在に至るまでの経緯を教えてください
学生時代の後半は軽音楽部に所属をして、日本のロックバンドのコピーを中心にライブなど行っていました。
もちろんヴェリタス祭でも演奏しました。
僕はギターも弾きますが、エフェクター※で音作りをするのも好きでした。
でもエフェクターって、買うと結構いい値段するんですよね。
それで、お金がないなら自作しようと考えました。
最初はエフェクターキットみたいなものを購入して組み立てているだけでしたが、そのうちパーツを変えて工夫をするようになり、最終的には回路図を描いたりもするようにもなりました。
そんな機械好き、回路好きが今の仕事に影響しています。
現在の仕事は機密性が高いので、具体的なことはあまり話せないのですが、簡単にいうと、自動車の信頼性を評価する仕事です。
これから自動車に備えられる新製品の、環境への適応や、耐久性などについてテストしています。
ヘッドアップディスプレイなどの最先端の技術に、いち早く触れられる機会があるのでとてもワクワクしますし、やりがいを感じています。
スペイン語を活かせる仕事をしたい
20歳を過ぎてから帰化申請をして、大学在学中に日本国籍を取得しました。
それまではゲレロ・カストロ・ダリオ・サトシという名前だったので、先生方からはゲレロくんと呼ばれていました。
僕は、ペルー出身なのでスペイン語が話せます。
卒業後はスペイン語を活かせる仕事をしたいと考えて就活を行いました。
運よく自動車のワイヤーハーネスを加工する会社に入社することができて、メキシコに出向して働きました。
日本の企業なのですがメキシコに工場があったんです。
その会社の協力会社が静岡にあったので、まず静岡で研修を受けてから、メキシコで2年間ほど働きました。
良い会社だったのですが、途中から自分のやりたいことと少し違う方向の仕事を担当していたので、思い切って転職をしました。
BARで出会ったパートナー
ーー そのまま静岡で転職されたわけですね
静岡の生活についてお話いただけますか?
静岡はとてもいいところです。
家から10分も自転車で走ると海に着いて釣りができますし、山も近くてよくキャンプをします。
そして魚が美味しい。
静岡で知り合った人たちも、いい人ばかりです。
最初の会社で、メキシコに配属される前に静岡で研修期間がありました。
その頃、BARでの遊びを覚えました
行きつけのBARがあって、そこのマスターからウイスキーなどお酒のことを教えてもらいました。
それから、BARでの嗜みやマナーについても学ばせてもらいました。
一人でBARに行き、そこにやってくる同世代の人たちと仲良くなったり、すでに仕事を引退されて第二の人生を楽しまれている方とお話をしたりして、段々と人と関わることを楽しむようになりました。
実は、妻とはそのBARで出逢ったんです。
僕はBARのマスターから、BARでの嗜み方を教えてもらっていました。
女の子が一人で飲みに来ていたら、まあ様子を見ながら声をかけてみて、嫌がられるならそれまでにする。
もし、うまいこと話が弾むようであれば、最低でも一杯は奢りなさいと教わりました。
そして、最後は連絡先を聞かないでさらりと別れる。
もう一回話がしたいなと相手が思ってくれて、連絡先を聞かれたなら、初めてそこで連絡先を交換するという感じです。
妻とBARで出逢ったときは、自分も陸上部でしたし、妻も運動部での経験があったので、スポーツや、運動部あるあるの話で意気投合して、明け方まで飲みながら語らいました。
まずは静岡に家を建てたい
ーー ダリオさんのこれからのビジョンをお聞かせいただけますか?
近い夢では、子どももできましたし、静岡に家を建てたいなと思っています。
ほとんどが飲み友だちですが、静岡で知り合った人たちは本当にいい人たちばかりで、ご自宅に招待していただく機会が多いんです。
その人たちのお家におじゃまさせていただいていて、いつか自分もみんなを自分のうちに招待したいなと思うようになりました。
おもてなしができる素敵な家を作りたいと思っています。
ーー 最後に120周年を迎える聖学院に期待することをお聞かせください。
きっと知らないだろうなと思いながら、出身大学が聖学院大学だと言うと、「聖学院大学の先生が書いた本を読んだことがありますよ」という方に出会ったことがあります。
自分の母校を知ってもらっているというのはうれしいですね。
先生や現役の学生たちに、もっと知名度が上がるように活躍してもらいたいと思いますし、僕たち卒業生はそうした先生や学生の活躍にもっと関心を持たなくてはと思います。
そして、僕たち卒業生も、自分たちが社会で活躍をすることによって、大学を有名にしていけたらと思っています。
(取材:2023年8月)
ーー ダリオさんありがとうございました。聖学院大学の知名度を上げるご活躍を期待していますよ。また、お会いしましょう。
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最後までお読みいただきありがとうございました。
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