僕は世界のヒーローになる|#049 山口 雄輝さん
聖学院中学校・高等学校 卒業
聖学院中高の卒業生ですごい人がいるという情報が入りました。
社長、役員として関わっていた7つの会社をいったん退任して、世界の貧困問題を解決するために世界行脚に出ているのだとか。
その名もチャレンジャー山口!
取材をお願いしてみたところ、聖学院中高のためならと快くお引き受けいただき、さっそくお話をうかがってまいりました。
世界の貧困をテーマに、大きく自分の人生の舵を切る
ーー社長や役員の立場を退いて、世界を旅しているとnoteで読みました。まずは、そのお話をうかがえますか?
旅ではなくて、僕は世界行脚(せかいあんぎゃ)と言っています。
世界のスラム街を巡り、大臣や社会起業家の方と会ってディスカッションをしているのですが、旅先としての”場所”ではなくて”人”が目的なんです。
昨年までは、7つの会社でCEOや役員の立場にあったのですが、スキー場の経営がひと段落したことをきっかけに、そろそろいいかなと思いました。
僕はずっと、自分にできるワクワクすることをしたくて、飲食店やキャンプ場経営などしてきました。
お客さんに「美味しかった」「楽しかった」と感謝されて「ありがとう」という言葉をいただき、それがモチベーションではあったのですが、もっと高いレベルでの「ありがとう」を求めるようになりました。
僕は、自分なりに「ありがとう」の質について定義しています。
その最高レベルは、”死ぬ”を”生きる”に変えたときの「ありがとう」です。
そしてその次は、人生に大きな良い影響を与えたときの「ありがとう」です。
どんなことでもお客さんから「ありがとう」と言われることはうれしいですが、これからもずっと、このままで良いのかと疑問に思いました。
意味のあることをしなくてはいけない。
意味のあることをしたい。
そう考えて、このタイミングで大きく人生の舵を切りました。
世界行脚で出会ったスラム街
世界行脚で印象的だったところはと聞かれれば、お話することはたくさんあります。
スペインのカニャダレアル
スペインのカニャダレアルはマドリードにあるドラッグのスラム街です
セクター1からセクター6に地区が別れていて、その中では、セクター1が一番安全で、数字が大きくなるとどんどん危険度が上がっていくRPGのような街です。
クレイジージャーニー※の丸山ゴンザレスさんでさえ、セクター5で逃げ出したのですが、自分はスペシャリストに同行してもらったおかげでセクター6まで行けました。(※クレイジージャーニー:TBSのバラエティ番組)
セクター6でおじゃました家庭でこんな話を聞きました。
カニャダレアルはマドリードの良い場所にあるので、スラムに住む人たちは政府から立ち退きを迫られています。
お金があって、生活が良くなるのであれば、当然、誰もがスラム街なんか出たいと思うだろうと僕は思っていました。
しかし、そうではないのです。
コミュニティも存在している、この街が好き、このエリアが好き、と彼らは言うのです。
僕は「世界からスラム街をなくす」というコンセプトを抱いて日本を出発したのですが、そもそもスラム街をなくす必要がなかったのだとわかり、ある意味カルチャーショックを受けました。
現地のことをまるで理解していなかったんだなと思いました。
ブラジルのファベーラ
ブラジルのファベーラはとても危険なマフィアの街です。
動画の撮影は絶対禁止で、下手をすれば命を落とすことさえあります。
スラム街は世界中どこでも同じというわけでなく、それぞれに特徴があるんだなと思いました。
ファベーラの街は危険なだけではなくて、アートや音楽があり、ネイルサロンなどもあって、とってもクリエイティブな街だったのです。
バングラディッシュ
バングラディッシュのグラミン銀行のマイクロファイナンスはソーシャルビジネスのお手本であり、創設者のムハマド・ユヌスはノーベル平和賞も受賞しています。
現地の人たちはビジネスをするために簡単にお金を借りることができて、そして返済率も高いのですが、実は金利は一般の銀行よりも高く、人々は金利を返すために生きているような状況になっていました。
この状況はグラミン銀行の本意ではなかったはずです。
僕は会社の規模が拡大することで本質が変わってきてしまっていることを感じました。
これは実際にバングラディッシュを訪れ、自分の目で見て、感じなければわからなかったことでしょう。
ーー山口さんが社会課題に目が向くようになったきっかけというか、原体験みたいなことはあったのでしょうか?
大学在学中にフィリピンのスラム街でストリートチルドレンに空手を教えているマスター拳(ケン)という人のうわさを聞いて、会いに行きました。
マスター拳の生き方を見て影響を受け、「俺も一生懸命生きよう」と思ったんです。
そして、ぼんやりとですが「いつか自分は貧困問題に対してアプローチする人になるんだろうな」と思いました。
その「いつか」が今のタイミングなんだと思います。
世界一過酷なレースにチャレンジしよう
ーーサハラマラソンを走られたと書かれていましたが、サハラマラソンを走るに至った経緯をお聞かせいただけますか?
昨年、スキー場を経営していたときに、ふと、自分が燃え尽きてしまい、魂が抜けてしまったように感じたことがありました。
1ヶ月ほどはのんびりしたのですが、このままじゃダメになるなという焦りの気持ちが湧いてきました。
それで一番過酷なレースにチャレンジしてみようと思い、インターネットで「過酷」「世界一」と入力して検索をしました。
それで出てきたのがサハラマラソンでした。
興味を持ってサハラマラソンについて調べてみて、「これは無理だな」と思いました。
無理だな?
俺、今、無理だなって思った?
できないと思う自分をすごくカッコ悪く思いました。
じゃ、走らなきゃ、と。
社会人になってからトライアスロンをやっていて、体力には自信がありました。
サハラマラソン出場を決めてからは、低酸素ルームでトレーニングをして、400km/月のペースで走りました。
そして、途中で、これはクリアできるなという確信を持ちました。
簡単なのはつまらないので、面白くするために歌舞伎の獅子の格好をして走ることにしました。
サハラマラソンは7日間で250km走ります。
過去には暑さと過酷さで死人も出ていて、誇張ではなく、本当に世界一過酷なレースです。
そこで歌舞伎の格好で走ったら目立つな、と思いました。
しかし、単なるイロモノになるつもりはありませんでした。
上位200位以内で走っていれば、最終日にトップランナーと一緒にスタートすることができるので、それを目標にしました。
そしてその目標もクリアすることができました。
後悔したくないので、やりたいことは全部やる
ーー高校卒業から起業するまでのことをお聞かせいただけますか?
実は僕は学校にいたときに、ちっとも成績は優秀じゃなくて、記憶力も悪くて、集中力もありませんでした。
それで現役で大学に行くことができませんでした。
集中力がなくて冷蔵庫の音でさえ気になるので、耳栓をして受験勉強して、耳にカビが生えたくらいなのですが、強みといえば、人より執着力が強いところです。
それに加えて、自分の戦い方、勝ち方を知っていたので、一浪してMARCH全部に合格することができました。
その中で、立教大学に行くことを決めたのは、キャンパスが大学らしくて素晴らしかったことと、華やかさがあったからです。
中高は男子校だったので、立教大学は女の子がいてうれしかったですね。
これは青春が始まるぞ!と。
そんなでしたので、大学では合コンしかしなかったです(笑)。
将来やりたいこともありませんでしたし、就職は大手企業であることだけが選択基準でした。
そして就職して、最初の会社を2年ほどで退職して、2社目で勤務しながら、お金を貯めて27、8歳で最初の飲食業のビジネスをスタートしました。
不動産の会社に勤務しながら、17時以降と土日を自分のビジネスにあてました。
最初の飲食業立ち上げから1年半後に、もんじゃ焼きの会社とアウトドアの会社もスタートさせました。
失敗したらどうしようという不安がなかったわけではありませんが、やりたい気持ちの方が勝っていたのだと思います。
後悔したくないので、やりたいことは全部やるのが僕の信条です。
最初のビジネスを始めたときにやりたかったことが4つありました。
1つ目は単純に「経営をしたかった」こと。
2つ目は「お金が流れてくる仕組みをつくりたかった」こと。
3つ目が「仲間づくり」をしたかったこと。
そして4つ目は「病気の母親から逃げない(親孝行)」ことです。
超ハードだったサッカー部の練習
ーー聖学院中高時代のお話をうかがえますか?
中高での思い出のほとんどはサッカーですね。
サッカーしかしなかったと言っていいぐらい。
ポジションは右サイドバックでした。
僕は走れるのでサイドバックだったのですが、スピードがあるかといえば、それはそれほどではありませんでした。
高校のときのサッカー部顧問は髙橋孝介先生でした。
先生とは今でも連絡をとっていて、先日もお会いする機会がありました。
孝介先生は、当時、ときどき2軍戦に、生徒に混じって出場したりしていました。
サッカーでドイツに行ったことがあり、小田原高校サッカー部でキャプテンを務めていたくらいなので、かなりサッカーが上手かったんです。
そんな孝介先生が顧問だったので、練習はハードでした。
弱いチームだったのに、練習は名門高校並のメニューなんですよ。
走り込みがハードすぎて、僕は2度ほどブラックアウトしたことがあります。
夏合宿もキツかったです、ホント。
スラム街に「あなた次第」を創ると言うビジョン
ーー山口さんの人生のビジョンをお聞かせいただけますか?
自分の人生のビジョンは、スラム街に「あなた次第」を創ることです。
具体的に言うと、スラムの人たちが無償の教育を受けられるシステムを世界中で展開することで、そして教育を受けた後でその人が自分の人生を変えたいと思ったなら、誰でもスタートできるような小規模なビジネスプランを一緒につくり、投資をして支援をし、伴走したいと思っています。
自分では”ジャンプ台設置野郎”とネーミングしていますが、いわゆるインキュベーターやアクセラレーターのスラム版だと思ってください。
世界中の貧困を解決しようと思っているので、これからとても忙しくなります。
自分は120歳まで生きるので、まだ人生の3分の1しか過ごしていませんが、それでも時間はいくらあっても足りないと思っています。
ですから、最初から8カ国で同時にスタートしようと計画しています。
僕は世界のヒーローになります。
ーー最後に120周年を迎えた聖学院にメッセージをお願いできますか?
聖学院、特に聖学院中高は社会課題に目が向いていると思います。
それはとても良いことだと思います。
ガンガンそっちの方向に舵を切っていった方が良いと僕は思っています。
(取材:2023年10月)
ーー ありがとうございました。山口さんの生き方、とてもカッコいいです!
これからも応援しています。山口さんも聖学院の応援よろしくお願いします。
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最後までお読みいただきありがとうございました。
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