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聖学院発祥の地をついに特定しました!

現在の聖学院の母体である聖学院神学校は「本郷基督教会」を仮校舎として開校しましたが、この「本郷基督教会」が教会合併に伴って閉鎖され、その場所が特定できないことから、聖学院の「発祥の地」は今日に至るまで、その正確な場所がわからなくなっていました。

聖学院では創立120周年を機に、「発祥の地」の特定を目的とした調査研究チーム(プロジェクトリーダー:清水広幸聖学院中高副校長、他4名)が組織され、「聖学院の発祥の地を探るプロジェクト」がスタートしました。


発祥の地付近での聞き取り調査の様子


研究チームは、前提となる資料『聖学院中学校高等学校百年史』に記載された聖学院の「発祥の地」に関する情報を、歴史史料から検証する形で調査を進めました。(写真参照)
『聖学院中学校高等学校百年史』では「本郷基督教会」を定義する際、(1)東大前にある
(2)H・H・ガイ宣教師が休暇帰米前に改築した
(3)牧師は宮崎八百吉
という三つの要素を提示しています。そこで調査は、記載された三つの要素すべてを完全に満たす場所を客観的資料から探す、という手法を採用しました。さまざまな歴史史料の記述を一つひとつ確かめながら調査を進めた結果、ついにその場所を探し当てることができました。


『聖学院中学校高等学校百年史』より




前提:聖学院の教派はディサイプルス派です


(1) 東大前にある本郷基督教会

(1-1)
1912年(明治45年/大正元年)の「地籍地図」にて、東京大学正門から北に2町(およそ218メートル)ほど離れた場所に「本郷教会」との記載を発見しました。別の古地図では同一の場所に「本郷基督教会」と記載されており、複数の史料から「本郷基督教会」の地図上の位置が特定できました。
また1912年の「地籍台帳」他の史料より、この地の地番は「本郷区本郷森川町二番地」であることが確認できました。

(1-2)
一方、複数の古地図を精査したところ、本郷区内には「本郷森川町二番地」以外の場所にも「本郷教会」「基督教会」と呼ばれる教会が複数あったことが判明しました。
しかしながらそれらの教会は、次項目の(2)H・H・ガイ宣教師が休暇帰米前に改築した、という要素を満たさないことが調査の結果明らかとなりました。またこれらの教会はディサイプルス派の教会ではないことも判明しました。
(弓町や壱岐坂、春木町にあった「本郷教会」は組合派、菊坂にあった「基督教会」は長老派です。「弓町本郷教会百年史」の資料より)
調査が進むにつれ、本郷区内の「本郷森川町」にある教会は、(1-1)で特定した「本郷基督教会」のみであることが明確となってきました(他の教会は森川町ではありません)。


(2) H・H・ガイ宣教師が休暇帰米前に改築した

(2-1)
ディサイプルス派の宣教師だったH・H・ガイが休暇帰米したのは、1900年6月2日です。このことは、ディサイプルス派が発行していた月刊誌『聖書之道』第24号(1900(明治33)年5月20日発行)に、ガイ本人の告別記事として記されています。

(2-2)
後に本郷基督教会の牧師となる宮崎八百吉が、1900(明治33)年7月20日に発行された『聖書之道』第26号に、「ガイ氏の六年間」と題して、一文を寄せています。そこには、ガイの功績として、
「33年2月以降一旦閉鎖したりし東京本郷基督教会を再興し、其の礼拝説教を担任し、ついで同教会の建築に着手し、(中略)……5月本郷教会の新築成りしかば、昔(さき)に献堂式を挙げ畢(おわ)んぬ」
と記しています。

(2-3)
これより少し遡ること1900(明治33)年2月20日発行の『聖書之道』第21号には、
「無牧師にて久しく休会の姿なりし東京本郷森川町教会は(中略)……ガイ教師斎藤牧師等随時にその会を導かる。又当会堂は遠からず其旧家屋を撤去して大会堂を建つるの計画を実行するに到るべし」
と記されています。
古地図などを確認すると、当時本郷森川町に教会は1つしかなく、またこの教会の改築工事の記事がディサイプルス派の月刊誌に掲載されていること、改築計画の開始時期が1900(明治33)年2月であること、などから、宮崎八百吉がガイの功績として記した「東京本郷基督教会」は、当初「東京本郷森川町教会」と呼ばれていたことがわかります。

(2-4)
翌月、1900(明治33)年3月20日に発行された『聖書之道』第22号には、会堂建築の続報として、
「東京本郷区森川町会堂の建築工事は着々はかどりつつあり、5月10日には竣工の見込なり」
と記されています。

(2-5)
更に翌月、1900(明治33)年4月20日に発行された『聖書之道』第23号には、
「東京本郷森川町会堂の建築工事は、着々はかどりつつある。予期に後ること僅にして竣工すべし」
と記されていることから、その竣工は、わずかに遅れたことが伺えます。

(2-6)
東京都公文書館に残されていた「本郷基督教会設立願」によれば、本郷基督教会は、聖学院神学校開校の前年である1902年(明治35年)5月6日時点で「本郷区本郷森川町二番地」にあったことが確認できました。
本郷森川町二番地に教会があったことは、「地籍地図」「地籍台帳」、その他の古地図等の記載と一致します。

(2-7)
「本郷基督教会設立願」に記されている土地の総坪数(180坪)は、地籍地図に記載された「本郷区本郷森川町二番地」の面積と一致します。またこの教会は「在来の建物を使用する」ことが、設立願に記されています。

(2-8)
これらの調査結果から、H・H・ガイ宣教師が休暇帰米前に改築した教会は、「本郷区本郷森川町二番地」にあった本郷基督教会であることが明らかとなりました。


(3) 牧師は宮崎八百吉

前出の「本郷基督教会設立願」に記載されている設立者の「フレッド、イー、ヘーゲン(ヘーギン)」はディサイプルス派の宣教師です。また「布教者ハ宮崎(嵜)八百吉」と「本郷基督教会設立願」に記載されていますが、『聖学院中学校高等学校百年史』の中の「牧師は宮崎八百吉」との記載に合致します。


以上のような『聖学院中学校高等学校百年史』に記載された内容の確認・調査を経た上で、「地籍地図」やその他の古地図と、公図(登記所が保管している土地の境界や位置、地番などが示された図面のこと)とを突合し、現住所を特定しました。1903年時点で「本郷森川町二番地」であった場所は、現在の「文京区本郷6-25-13」であることが明らかになりました。その地には有限会社柏林社書店という古書店が建っていることが判明しました。



学校法人聖学院は、発祥の地の記念碑(石碑)を建てる計画をしています。
記念碑は10月頃に建立予定です。
新たに進展がありましたら、noteにて続報をお伝えして参ります。

(To be continued)


以下のリンクから、聖学院の歴史・沿革、あゆみを見ることができます
歴史・沿革 ➡ 歴史コンテンツ (seig.ac.jp)
あゆみ   ➡ 歴史コンテンツ (seig.ac.jp)