人生のテーマは「脱力」、エピクテトスに学ぶ|#026 伊藤 大輔 さん
聖学院中学校・高等学校 卒業
昨年(2021年)4月、第13 代目となる聖学院中高の校長に、聖学院中高の卒業生である伊藤大輔先生が就任されました。
伊藤先生は聖学院中高WEBサイトの「校長ブログ」やSNSで積極的に言葉を発信されています。
東京都渋谷区の本多記念教会の牧師を務められており、聖書を背景とするその言葉たちは、ときに哲学的であり、ときに真理を求め、そしていつも愛に満ちています。
そんな伊藤先生に、直接お話しをうかがおうと取材させていただきました。
人生のテーマと普段着の伊藤先生
ーー 伊藤先生の人生のテーマとは何でしょう ?
いきなり難しい質問ですね。
そうですね、脱力です。
人は、「うれしい」「悲しい」といった感情に引っ張られてしまうと視野を狭めてしまい、大切なことが見えなくなってしまうと思います。
そうすると、他者を傷つけてしまうこともありますし、何より自分自身が苦しくなります。
感情や前提に囚われることなく、いつも自然体でありたいと思っています。
しかし、脱力は案外に難しいです。
毎朝、意識的に力を抜かなきゃと思っています。
伊藤先生のテーマである脱力の意味はエピクテトスを学ぶとわかりやすくなるとのこと。こちらがオススメの本 ↓
ーー お休みの日はどんなことをされてますか ?
日曜日は教会です。
それ以外は特にこれと決めてやっていることはないですね。
2年前に犬を飼いはじめたので、犬が私たちの生活の中心にあり、行動範囲も限られてしまっています。
私の仕事は牧師なので、妻と2人で、夫婦で面倒を見られるからと考えて、2年前に犬を飼いはじめました。
ところが、飼いはじめてすぐに聖学院から連絡があって、聖学院中高の校長になることを打診されました。
「犬を飼っているから引き受けられない」とは言えないですし、犬がこの縁を持ってきてくれたのかなと思いました。
お休みの日だけではありませんが、実は私は結構、料理をします。
ジャンルは特に決めていなくて、専門料理というよりも家庭料理です。
何でも作りますよ。
食材の買い物にもよく行きます。
昔、私の父親がスペイン料理のレストランを経営していた時期があって、まあ父親の気まぐれに振り回された感じではあるのですが、家族みんなでお店を手伝って、私も厨房に立ちました。
伊藤先生の歩んできた半生
ーー 聖学院を卒業してから校長先生になるまでのことを教えてください。
私が中学3年のときに父親が広島から東京に転勤になり、聖学院中学に転入しました。
聖学院を選んだのは、キリスト教の学校だったからだと思います。
聖学院を卒業して東京神学大学へ進学しました。
大学を卒業してからは、基本的にずっと聖職者としての人生です。
最初に赴任したのは高知県の南国教会でした。
実は諸事情があって南国教会には1年間もいなかったのですが、それからしばらくは牧師の任務から離れることとなりました。
その間に、様々な職を経験しました。
父親の経営するレストランを手伝ったのもその一つです。
福島県の児童養護施設である堀川愛生園で勤務したことがあります。
私が教育に初めて携わったのは堀川愛生園です。
初めて子どもたちと接したときに、神学校や教会で使っていた言葉が通用しないということを学びました。
きれいごとや表面的な言葉は彼らには響きません。
何とか彼らに届くような言葉はないかといつも探していました。
説教とはこういうものである、キリスト教とはこうである、と決めつけていくと何も伝えられません。
自然体になれたとき、つまり、脱力できたときにだけうまくいったのでした。
学校はどこに向かうべきか?
ーー そして、校長先生になられたわけですね。
先生の立場で学校に戻られて、変わったなと思うこと、変わっていないなと思うことはありますか?
40年以上のタイムラグがありますから、いろいろと変わっていますし、むしろ変わっていないとおかしいですね。
それでも、「ああ、聖学院だったらそれやるよな」と感じることが、やはりたくさんあります。
聖学院は他の学校と比べても、生徒がやれることが多いと思います。
私は中学3年生に転入してきましたが、「そんなこともしてもいいんだ」と感じたことがたくさんありました。
とはいえ、あるラインを超えるとこっ酷く叱られますから、そのラインを見極めるのは大切です(笑)。
ーー これからの学校はどうあるべきだと思いますか?
学校の制度が今のスタイルになったのは、それほど大昔のことではありません。
高度経済成長の時代には人々の働く場所が会社や工場であり、それに合わせた学校がつくられてきました。
それでは働く場所が今までのような会社や工場でなくなったときに、果たして今と同じように学校が必要とされるのか?ということは常々考えています。
日本では、昔は「家」が重要でした。
教育も家制度の中で行われてきました。
現在は「国」が「個人」を保障する社会です。
国が家に代わったときに、家からの独立、すなわち「個人化」が進められました。
そして、その個人化はまだ進行中でもあります。
やがて個人化の進行によって学校が不要となる時代が来るかも知れません。
例えばメルカリという企業がありますが、「みんなのメルカリ教室」など、個人の出品に関するヒントを提供するサービスがあります。
そのトピックとして「汚れたシャツを出品してもよいのか?」という疑問が出たことがありました。
シャツはクリーニングをして出さなくてはいけないというルールがあるわけではないので、汚れたシャツを出品する人もいます。
しかし、そうした人は信用される出品者になれませんし、結果的にビジネスはうまくいきません。
メルカリという場を通じて、誠実さや説明することの大切さ、倫理観、信頼などを学ぶことができます。
これは道徳教育です。
つまり、教育者でなくても教育は行えるし、教育を行うところは必ずしも学校でなくても良いと思うのです。
それでは学校の存在価値とはいったい何でしょうか?
聖学院の存在価値とはいったい何でしょうか?
歴史を紐解いて、歴史の中から学ぶことが多くあります。
そして、これはかなり真剣に考えるべきことであると私は思います。
昔も今もこれからも学校に求められることは理念です。
知らないことがあるから人は学び、すべて足りていると感じるならば学びません。
学校は、学ぶ必要があると思うことを学べる場所である必要があると思います。
人間と猿の違いは、人間の信じる力
人間と猿が違うのは、人間には「実体」がないものを在るとする能力、信じることができるということです。
「貨幣」「人権」「正義」「平和」「愛」実体はありませんが、私たちはそれを「在る」としています。
信じて世界を回しているのです。
それは信じることができるから可能なのです。
人間誰もが持っている「信じる」を顕在化する、意識化することがキリスト教主義学校の役割なのではないでしょうか。
数学などで学ぶ「フラクタル現象」というものがありますが、私はそれを「信じる」と近いものだと感じています。
聖書は一番最初、「対称性」から始まります。
「初めにことばがあった」
「言葉」という表現で「ことば」という内容を指し示しています。
他のすべての「言葉」は「音」「文字」でこの世界のものを指し示します。
言葉が何かを示しています。
それに対して「ことば」は自分自身を指しています。
自分で自分を語る。
外に出ない言葉、絶えず内側に向かう言葉です。
同じことを繰り返している。
フラクタル、「対称性」の性質も持っています。
三面鏡に頭を突っ込むと、どこまでも自分の姿が続いて写し出されます。
そのイメージです。
本当は世界はどこまで行っても、何をしても同じであるということを理解できたときに、自分のフラクタルが突如として出現します。
「わたし」て、こういうものなんだ。
変わらない私、本当の私が分かるのだと思います。
そして、自分のフラクタルを理解する、つまり「自分は何なのか」がわかったときに力が抜けて、脱力するのです。
脱力することで、実体がないけれど確かにあるものに出会うことができます。
つまりそれが信じるということです。
(取材:2022年10月)
ーー 伊藤先生ありがとうございました。またお話を聞かせてください。
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